もし地球上に金が無かったら

金は働かない。利息も配当も払わず、金庫に入れて百年待っても、新たな金地金を生み出してはくれない。
投資の神様、ウォーレン・バフェット氏が金を非生産的な資産と評する理由だ。農地には作物が実り、企業は商品をつくって利益を上げる。それに比べれば、金はただそこにあるだけだ。
では、そんな金が地球上に無かったら、人類は困ったのだろうか。銀や白金が代わりになるという話ではなく、希少で変質しにくく、持ち運べる代替物も存在しないと考えてみたい。
それでも経済は発展しただろう。人々は食料を生産し、家を建て、商売をする。貨幣も、素材そのものに価値がなくても、「誰もが支払いに受け取る」という了解があれば成立する。
ただし、そこには難問がある。誰を信用するのか、という問題だ。
言葉も宗教も法律も違う国同士が、同じ制度を信用し続けるのは容易ではない。平時には使える相手国の通貨も、戦争や財政危機になればどうなるか。取引相手を信用できても、その国の政府まで信用できるとは限らない。
金は、その隔たりを埋めてきた。重量と純度を確認して現物を受け取れば、相手の将来の支払いを待たずに済む。金には発行者がおらず、誰かの返済義務が価値の土台になっていない。
もちろん、将来も人々が金の価値を認めるという期待は必要だ。それでも、一国の約束に財産を託すこととは違う。金は、人類が互いを完全には信用できなくても、取引を成立させる手段なのである。
金もその代替物も無かったなら、世界は強い国家の通貨を中心とする経済圏に、より深く依存していたかもしれない。
――そこで、ふと日本が思い浮かぶ。
日本の外貨準備は米国債などの外国証券を中心とする。一方、家計の金融資産は今も半分近くが現金・預金だ。政府は対外的にドルと米国の信用を、国民は国内で円と日本の金融制度への信用を蓄えている、ともいえる。
これは不合理な選択ではない。ドルは国際決済の中心であり、円預金は日々の支払いに便利だ。しかし、預金通帳の数字が変わらないことと、財産の価値が変わらないことは同じではない。物価が上がれば、同じ百万円で買えるものは減っていく。

ドルと円に分ければ為替の分散にはなる。それでも、いずれも国家の通貨制度に依存するという共通点は残る。
日本は金を持たない国ではない。しかし、国家と金融制度への信用に資産が偏っているなら、「金のない世界」は遠い思考実験ではない。そして、それは安心材料ではなく、財産の守り方を考え直すきっかけになるはずだ。
もっとも、金も万能ではない。価格は下がるし、保管には費用もかかる。米国は1933年、一部の例外を除き、国民による金地金などの保有を禁じ、ドルとの交換を強制した。誰かの債務ではないからといって、国家の権力の外にあるわけではない。
それでも私は、金のない世界より、金のある世界の方がよいと考える。
人間のつくる制度が完全ではない以上、その制度だけに財産のすべてを委ねずに済む選択肢がある方がよい。金を持つかどうかは各人の判断だが、持てること自体に価値がある。
これは金本位制に戻るべきだという話でも、株式や預金をすべて金に換えるべきだという話でもない。信用制度の恩恵を受けながら、それだけに頼り切らない道も残しておく、ということである。
バフェット氏のいう通り、金は何も生産しない。しかし、何も生産しないことと、何の役にも立たないことは違う。
金が提供してきたのは、人類が互いを完全には信用できなくても、取引し、蓄えを次の時代へ持ち越すための余地だったのではないか。
金の価値は、地中に存在する量の少なさだけでは決まらない。人間がつくる制度の不完全さもまた、その価値を支えている。
だからこそ、私は金のない世界より、金のある世界の方がよいと思う。金とは、富を生み出す力ではなく、富を託す先を一つ増やしてくれる存在なのである。

