日本における金本位制
日本銀行の資料によると、日本における金本位制は1897年に金0.75グラム=1円とする「貨幣法」が制定されたことによりはじまりました。19世紀後半、欧米先進国は先行して銀本位制から金本位制へと移行しており、日本は日清戦争の賠償金を準備金として金本位制を確立、これにより日本は国際的な経済・金融秩序に加わることになりました。
日本銀行券はそれまでは「日本銀行兌換銀券」でしたが、金貨と交換(兌換)できる「日本銀行兌換券」になったのです。
1914年に始まった第一次世界大戦による大戦景気によって日本銀行券の需要は増大しました。しかし、第一次世界大戦が終わり、ヨーロッパ諸国が復興してくると、日本の輸出は減少し、各産業を不況の波が襲いました。さらに1923年には関東大震災にも見舞われ、日本経済は大きな打撃を受けました。そうしたなか1927年3月、世界では金融恐慌がおこり、恐慌は日本にも波及しました。
日本銀行は多額の日本銀行券を発行し、預金者の不安を鎮めることに努め、政府は3週間のモラトリアム(支払猶予令)を発令するなどの対策を講じたものの、不安にかられた人々が預金の引き出しに殺到する取付け騒ぎが拡がり、日本銀行券が不足したため、急遽裏面の印刷を省いた二百円券(裏白券)を発行するなど対応に追われました。
金本位制で先行していた欧米では、ニューヨーク、ウォール街での株価大暴落(1929年)をきっかけとする世界恐慌の影響で、イギリスは1931年9月に金本位制からの離脱に追い込まれた。欧州各国はイギリスに続いて金本位制を停止しました。日本も同年12月に銀行券の金貨兌換を停止し、金本位制から離脱することとなりました。日本における金本位制が実施されていたのは1897年~1931年の34年間となります。
その後、1942年に公布された日本銀行法により、名実ともに今日につながる管理通貨制へと移行し、管理通貨制度のもとでは、日本銀行券は金貨と交換することは不可能となり、通貨の発行量は中央銀行が調節することになりました。日本銀行法により券面の金貨引換文言が消え、「日本銀行兌換券」は「日本銀行券」となったのです。
しかしながら、日本を含む金本位制を離脱したすべての国が金との固定相場から外れたかというと必ずしもそうではありません、第二次大戦中の1944年、米国にあるブレトンウッズホテルに連合国の代表が集まって決められた為替メカニズム、通称「ブレトンウッズ体制」ができました。
第二次大戦の遠因でもあった為替相場切り下げ競争の再発を防ぎ、戦後の復興に欠かせない貿易の円滑な発展のための決済システムを作ろうとしたものです。各国通貨と米ドルの交換比率を固定し、ドルだけが金と交換比率を固定するという、ドルを間に挟んだ金本位制です。これを金・ドル本位制と呼ぶこともあります。
金との兌換はドルだけとなり、金とドルの相場を固定し、ドルと各国通貨の相場を固定するということは、金本位制と実質的には同じに見えますが、金本位制では各国間の決済が原則的には金で行われていたのに対し、金ドル本位制ではその立場をドルで行われたということです。金は紙の通貨と違って貿易量の増加に従って柔軟に流通量を増やすことが出来ません。
通貨発行量が拡大しやすい一国の通貨、米ドルが金にとってかわったわけですが、金の量は増えないのにドルの量は経済回復につれて増えていきます。増えない金を担保に米ドルが増発されるという点にブレトンウッズ体制の矛盾がありました。
結局、1971年8月、ニクソンショックによってこの金・ドル本位制は一夜にして崩れることとなりました。以降、各国の通貨価値が、名実ともに金というアンカーを失い、変動相場制を漂うことになったのです。